moon 1

http://kichon.com

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

LIFE BALANCER

命にはどうもそれぞれの重さというものがあるらしい。

私たちは野菜や動物の肉を食べそれをエネルギーに変えて生きる。
木を伐採して家を建てたり防寒の為に動物の革を剥いで身に纏う。
この辺りまでは他者の命の重さはどれも等しかったのかもしれない。

いつからか私たちは贅沢の為に利害関係の為に自由に命を奪うようになった。
はたまたその種が希少だと知るやいなや保護や増殖を試みたりする。
風習であったり宗教上の理由、またこれは頭のいい動物だからという理由で殺生を批難する場合もある。
これらは時代や地域差による倫理観、人生観、宗教観などによってどこまで可能か線引きされる。
しかし現代においてその線は非常に見えくくなっている。

例えば贅沢の為に他者の命を奪うことはどういうことなのか。
現在において、その命を奪う行為は誰かが請け負ってくれるので自らの手を汚す必要がない。
太らせて病気にしたガチョウの肝臓を食べる。優雅さを見せる為に毛皮のコートを羽織る。
贅沢とは文化が生んだ過剰な振る舞いのことで、人間として生まれたならばそこに憧れ溺れることも理解できる。
その贅沢は経済を回し、文化へと還元されるのだから。
だから憎むべきものかどうかは僕が決めることではなく各々が決めることだ。

命は平等だと偽善的に訴えてもやはり命に重さに違いはあるようだ。
この命の重さをはかることはできないか。
これは命の重さをはかる為の天秤である。
Life Balancer no.01

life_balancer_drawing.jpg

結晶彫刻(Q&A)

今回の個展で多くの質問を頂いた。
多かったものを中心にこの場でいくつか答えてればと思う。

Q:何故、髑髏やシャンデリアなどなのか?
A:「死」のモチーフとして髑髏。また聖杯、燭台も死のイメージが付きまといます。「生」のモチーフとしてシャンデリアや指輪、ネックレスなどのいわゆる生を彩る装飾品。
コンセプトで述べたようにこれらの意味が混じり合わせることができればと思っています。

Q:何故2つの会場でおこなったのか?
A:hpgrp galleryには「死」のモチーフを中心に、window galleryには「生」をモチーフを中心に展示しました。対比して見てもらえれば楽しでもらえるのではないかと思っています。(もう展示は終わってしまいましたが)

Q:数ある結晶の中から何故明礬を使ったのか?
A:数ある結晶から明礬を選んだのにはいくつかの理由があります。
まず私たちに馴染みがあるということ。馴染みのない素材はまずその時点で私たちと距離が生まれてしまいます。
そして二つ目は結晶の構造が美しいということ。これは重要な要素ではないかと思います。
三つ目は結晶化しやすいということ。いくら美しいと言っても高圧高温下で何万年も必要なものを人間の生涯で作れないでしょうし。

Q:保存はきくのか?
A:常温であれば蒸発してしまったり溶け出してしまうことはありません。
火や水に弱いですが、多くの彫刻作品はそうですよね。


Q:今までの作品とは全然違うのはどうしてか?
A:確かにこれは今までの他のシリーズと比べても大きく違うのかもしれません。しかし今までの様々なシリーズをほぼ総括できるテーマというものは存在します。
今それを具体的に説明することも作ることもできていないかと思います。それは僕の力量不足が原因です。その作品を作ることができれば全ては繋がって見えるだろうと思います。
いつの日かそれを作れればと思っています。

alum_detail.jpg

結晶彫刻(メイキング)

結晶を育てる、という言葉に首を傾げる方もいるかもしれない。
またこれらはどうやって作っているのかが全て企業秘密なわけではないし、寧ろ知ってもらう方が作品をより理解頂けるのではないかと思う。

明礬(みょうばん)というとどこかで聞いたことがあるかと思う。
古くはローマ時代から親しんできたものでもある。汚れた井戸に少量入れてゴミを沈殿させる為に使っていたらしい。 また日本では茄子の浅漬けを鮮やかにしたりウニに型くずれを防ぐため、染め物の定着、明礬温泉など様々なものに使われていた。


また小学校の理科の実験で明礬の結晶を作ったかもしれない。基本的にはそれと同じ作り方である。
水に溶け、高温ほどよく溶ける。飽和状態から水分が蒸発したり温度が下がって過飽和状態になると溶けきれなくなった明礬は結晶となって現れてくる。

結晶構造は正八面体と美しい。
また急激に下がるとたくさんの結晶ができ、徐々に下がると大きな結晶が出来やすい。
これらの工程を繰り返すことで結晶はゆっくりゆっくりと時間をかけて成長していく。

また外気においては安定しており塩のように水分を吸収して崩れることはない。加熱して水分を飛ばすと300°までに焼きミョウバンと呼ばれる乾燥した状態になる。またそれは外気に晒しておくと水分を吸収して明礬へと変わる。(つまり明礬はある程度の水分を含んだ状態で安定している)

髑髏のおおまかなカタチの雌型をシリコンで作り、その中で結晶を成長させる。そしてリューターなどを使い細部を彫刻していく。再び型の中に入れて溶液に沈め成長させる。その繰り返しである。
水温や明礬濃度といった環境により結晶の成長は左右され、それが個体差となって現れる。

以上、かなり大まかではあるが作り方の説明でした。

alum_0001.jpg
alum_0007.jpg
alum_0004.jpg
alum_0016.jpg
alum_0017.jpg

結晶彫刻(コンセプト)

2会場で開催していた個展「never die」@hpgrp gallery TOKYOと「never fade」@H.P.FRANCE WINDOW GALLERYも終わった。
本来は作品のコンセプトなどは個展前にリリースできればよかったのだが作品だけでていっぱいになってしまった。
「生と死」という普遍的なテーマを扱っているだけにかなり慎重になっていたこともあったが。
何回かに分けてテーマと素材について展開できればと思う。




これらは明礬(みょうばん)の結晶からできた彫刻作品である。
明礬の結晶は明礬を水に溶かして飽和状態にした母液の中で成長をする。 過飽和状態になった分が結晶となって現れてくるのである。それはまるで生きているかのように。 僕にとってそれは「生」の意味を持っているように思えた。
しかし結晶は地層のようにゆっくりと年月をかけて積層していく。
徐々に積み重なっていくそれらは地層のようでもあり、僕には「死」を感じさせた。
このように「生」と「死」本来相反する意味を兼ね備えた結晶という物質に僕は心惹かれた。

一般的に私たちの世界では「生」が賛美され、「死」が忌み嫌われる。 死にたくないし、衰えたくない。こう私たちは思う。僕もそうである。
当然のことかもしれない。


これを説明するには澁澤龍彦の著書「ホモ・エロティクス」を引用が適当であるかと思う。 その著書の中でフロイトを下敷きに「生=快感原則」「死=ニルヴァーナ(涅槃)」と展開。そしてそれの仮定のもと「快感原則」と「ニルヴァーナ」の統合こそ必要であると主張している。
「生の本能(エロス)」とはいわゆる性欲、食欲、知的欲求など外側に向けられた衝動、「死の本能(タナトス)」とは自己を破壊しようとするという内側に向けられた衝動とフロイトは説く──── ここでいう「死の本能」とは新たなる生の為の破壊衝動よりも永久不変への憧憬が強いだろう。

「生」は時間の制約の中、死を怯えながら快感を求め続けなければならないのか。
「死」は時間の停止した中では永遠何の変化もなくそういった脅迫観念からは解放されるのではないか。
本来それらの衝動は同じものではなかったのか。
これらを再度統合することこそが私たちの夢であるのではないだろうか。

alum_never_die.jpg

陽光礼賛

作品を『震災』に結びつけることに抵抗があった。
それは安易に踏み込んでいいところでもなければ俯瞰できる程の歳月も経っていないと考えていたからだ。
とはいえ今現在日本に生きている私たちはそれから逃れることができるのか。
震災前・震災後。それは戦前・戦後の価値観の変容のように大きく時代を分けてしまっているからだ。

******************

震災を起因とした原発事故。日本のような小さな島国では1機の炉心溶融だけで国が終わると思っていたというのにそれが3機も同時に。
勿論電力会社の管理体制、事後処理などについても非難されるべきだろう。
しかしそれを除いても原子力は私たちの手に負えない事を多くの人は痛感した。

これに伴い多くの人を巻き込み原発反対運動が表面化した。
毎週のように都内の何処かで行われる反原発・脱原発デモ。
そして原子力に変わる代替案として再生可能(自然)エネルギーが挙げられた。
太陽光・風力・地熱・バイオマス・潮力・波力などといった非枯渇性資源を使ったものだ。

しかしそれを声高に叫べば叫ぶほど僕はある種の心地悪さを感じた。
まるで太古に私たち人類が神を想像しそれを崇拝したように自然エネルギーを掲げていると感じたからか。
自然エネルギーを使うことこそが人間と自然との共生方法だ、だから自然エネルギーは正義だ、原子力エネルギーは悪だという二項対立を築いた。
相対的に物事を考察すればどちらにもメリット・デメリットがあることは明らかだろう。
何かを発言したり運動をする場合にはテーゼたるものが必要だ、しかしそれを妄信し過ぎれば途端に宗教的な香りを醸し始める。

宗教が我々人類の歴史に果たしてきた最大の役割とは集団社会の形成、維持だろう。
多くの人々が集えば様々な民族的特徴や思想の違いから衝突は絶えない。
そこに宗教はイデオロギーを与え根底に共通項を持たせるという重要な役割を担ってきた。
その時宗教は人々が礼賛できるような権威的な装置を作る必要があった。
つまり象徴となり得る偶像や建築などだ。

神々は死に、資本主義経済の限界さえも見え隠れする現在に私たちは宗教に立ち戻ろうとしているのか。
ならば今私たちが掲げる効果的なものは権威的な対象となりうる装置だろうか。

僕はここで原子力やら自然エネルギーやらの善し悪しを言うつもりはない。
ただ僕はフラットな視点がほしいだけだ。

******************

今回のメイン作品のタイトルは「green generator no.03」。(no.01とno.02はスタディーモデル)
蛍光灯の光を受けファンに取り付けられたソーラーパネルでプロペラが回転する。
そして3連のファンを回転させそのエネルギーは蛍光灯を点灯させる。
まさに夢のエネルギー循環装置である。
勿論、自然エネルギーの非効率性から考えればこれが見せかけのものだとわかる。
自然エネルギーは今の技術ではまだ非効率なものであるし、礼賛する対象は見せかけで十分だ。

ggno03image.jpg

******************

明後日(6/9 Sat.)は現在グループ展をしているギャラリー(FUMA CONTEMPORARY TOKYO)にて参加作家4人とゲストにインディペンデントキュレーターの水田紗弥子氏を招いてトークイベントを行います。
その前に軽く文章をまとめてみました。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
>