moon 1

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六甲山の植物史

Life Balancer no.01を六甲山に設置するにあたって僕はどのような基準で植物を選定したか。秋口から冬にかけての展示ということで双方に落葉樹ではなく常緑樹を植えられている。
そして片方は常緑の広葉樹中心に、もう片方は常緑の針葉樹を中心になっている。

六甲山の歴史とはどういうものか。
麓はシイやカシなどの照葉樹林、山頂部はブナやミズナラなどの落葉広葉樹であったという。
ところが江戸時代に入ると伐採や山火事が原因で荒廃し、さらに江戸後期には神戸港開港の影響もあって禿げ山になってしまい土砂災害が増えた。それに危機を感じ1895年(明治28年)から治水目的とした緑化が進められ現在では1700種以上の植物が自生する自然豊かな山へと戻ったいう経緯がある。

しかしこの背景には1858年に締結された日米修好通商条約、いわゆる不平等条約の影響があったのだろう。この不平等条約にある外国人居留地制度によって六甲山に居留した外国人がより住みやすいようにリゾート開発も進めていった。リゾート地が禿げ山のままというのでは成り立たないのだから彼らが緑化計画の一旦を担っていたことは否定できない。
その際には彼らのふるさとであるイギリスやドイツ、アメリカの森も幾らかお手本になったのではないだろうか。

日清戦争などの勝利により日本の国際的価値が見直され1899年の不平等条約が解消され外国人居留地は日本に返還された。その後官民が入り乱れ六甲山を開発するようになって今に至ったわけである。
つまり不平等条約が六甲山を観光地としての基礎を作り、かつてあった自然を再生されたのは皮肉なことでなないだろうか。
──これは日本のその他の外国人居留地があった横浜、箱根、函館などにおいても見受けられる。

僕は広葉樹中心の植栽を「東洋の森」、針葉樹中心の植栽を「西洋の森」と名付け東洋と西洋の森の命の重さというものを天秤にかけた。

mori_drawing.jpg

LIFE BALANCER

命にはどうもそれぞれの重さというものがあるらしい。

私たちは野菜や動物の肉を食べそれをエネルギーに変えて生きる。
木を伐採して家を建てたり防寒の為に動物の革を剥いで身に纏う。
この辺りまでは他者の命の重さはどれも等しかったのかもしれない。

いつからか私たちは贅沢の為に利害関係の為に自由に命を奪うようになった。
はたまたその種が希少だと知るやいなや保護や増殖を試みたりする。
風習であったり宗教上の理由、またこれは頭のいい動物だからという理由で殺生を批難する場合もある。
これらは時代や地域差による倫理観、人生観、宗教観などによってどこまで可能か線引きされる。
しかし現代においてその線は非常に見えくくなっている。

例えば贅沢の為に他者の命を奪うことはどういうことなのか。
現在において、その命を奪う行為は誰かが請け負ってくれるので自らの手を汚す必要がない。
太らせて病気にしたガチョウの肝臓を食べる。優雅さを見せる為に毛皮のコートを羽織る。
贅沢とは文化が生んだ過剰な振る舞いのことで、人間として生まれたならばそこに憧れ溺れることも理解できる。
その贅沢は経済を回し、文化へと還元されるのだから。
だから憎むべきものかどうかは僕が決めることではなく各々が決めることだ。

命は平等だと偽善的に訴えてもやはり命に重さに違いはあるようだ。
この命の重さをはかることはできないか。
これは命の重さをはかる為の天秤である。
Life Balancer no.01

life_balancer_drawing.jpg

結晶彫刻(Q&A)

今回の個展で多くの質問を頂いた。
多かったものを中心にこの場でいくつか答えてればと思う。

Q:何故、髑髏やシャンデリアなどなのか?
A:「死」のモチーフとして髑髏。また聖杯、燭台も死のイメージが付きまといます。「生」のモチーフとしてシャンデリアや指輪、ネックレスなどのいわゆる生を彩る装飾品。
コンセプトで述べたようにこれらの意味が混じり合わせることができればと思っています。

Q:何故2つの会場でおこなったのか?
A:hpgrp galleryには「死」のモチーフを中心に、window galleryには「生」をモチーフを中心に展示しました。対比して見てもらえれば楽しでもらえるのではないかと思っています。(もう展示は終わってしまいましたが)

Q:数ある結晶の中から何故明礬を使ったのか?
A:数ある結晶から明礬を選んだのにはいくつかの理由があります。
まず私たちに馴染みがあるということ。馴染みのない素材はまずその時点で私たちと距離が生まれてしまいます。
そして二つ目は結晶の構造が美しいということ。これは重要な要素ではないかと思います。
三つ目は結晶化しやすいということ。いくら美しいと言っても高圧高温下で何万年も必要なものを人間の生涯で作れないでしょうし。

Q:保存はきくのか?
A:常温であれば蒸発してしまったり溶け出してしまうことはありません。
火や水に弱いですが、多くの彫刻作品はそうですよね。


Q:今までの作品とは全然違うのはどうしてか?
A:確かにこれは今までの他のシリーズと比べても大きく違うのかもしれません。しかし今までの様々なシリーズをほぼ総括できるテーマというものは存在します。
今それを具体的に説明することも作ることもできていないかと思います。それは僕の力量不足が原因です。その作品を作ることができれば全ては繋がって見えるだろうと思います。
いつの日かそれを作れればと思っています。

alum_detail.jpg

結晶彫刻(メイキング)

結晶を育てる、という言葉に首を傾げる方もいるかもしれない。
またこれらはどうやって作っているのかが全て企業秘密なわけではないし、寧ろ知ってもらう方が作品をより理解頂けるのではないかと思う。

明礬(みょうばん)というとどこかで聞いたことがあるかと思う。
古くはローマ時代から親しんできたものでもある。汚れた井戸に少量入れてゴミを沈殿させる為に使っていたらしい。 また日本では茄子の浅漬けを鮮やかにしたりウニに型くずれを防ぐため、染め物の定着、明礬温泉など様々なものに使われていた。


また小学校の理科の実験で明礬の結晶を作ったかもしれない。基本的にはそれと同じ作り方である。
水に溶け、高温ほどよく溶ける。飽和状態から水分が蒸発したり温度が下がって過飽和状態になると溶けきれなくなった明礬は結晶となって現れてくる。

結晶構造は正八面体と美しい。
また急激に下がるとたくさんの結晶ができ、徐々に下がると大きな結晶が出来やすい。
これらの工程を繰り返すことで結晶はゆっくりゆっくりと時間をかけて成長していく。

また外気においては安定しており塩のように水分を吸収して崩れることはない。加熱して水分を飛ばすと300°までに焼きミョウバンと呼ばれる乾燥した状態になる。またそれは外気に晒しておくと水分を吸収して明礬へと変わる。(つまり明礬はある程度の水分を含んだ状態で安定している)

髑髏のおおまかなカタチの雌型をシリコンで作り、その中で結晶を成長させる。そしてリューターなどを使い細部を彫刻していく。再び型の中に入れて溶液に沈め成長させる。その繰り返しである。
水温や明礬濃度といった環境により結晶の成長は左右され、それが個体差となって現れる。

以上、かなり大まかではあるが作り方の説明でした。

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結晶彫刻(コンセプト)

2会場で開催していた個展「never die」@hpgrp gallery TOKYOと「never fade」@H.P.FRANCE WINDOW GALLERYも終わった。
本来は作品のコンセプトなどは個展前にリリースできればよかったのだが作品だけでていっぱいになってしまった。
「生と死」という普遍的なテーマを扱っているだけにかなり慎重になっていたこともあったが。
何回かに分けてテーマと素材について展開できればと思う。




これらは明礬(みょうばん)の結晶からできた彫刻作品である。
明礬の結晶は明礬を水に溶かして飽和状態にした母液の中で成長をする。 過飽和状態になった分が結晶となって現れてくるのである。それはまるで生きているかのように。 僕にとってそれは「生」の意味を持っているように思えた。
しかし結晶は地層のようにゆっくりと年月をかけて積層していく。
徐々に積み重なっていくそれらは地層のようでもあり、僕には「死」を感じさせた。
このように「生」と「死」本来相反する意味を兼ね備えた結晶という物質に僕は心惹かれた。

一般的に私たちの世界では「生」が賛美され、「死」が忌み嫌われる。 死にたくないし、衰えたくない。こう私たちは思う。僕もそうである。
当然のことかもしれない。


これを説明するには澁澤龍彦の著書「ホモ・エロティクス」を引用が適当であるかと思う。 その著書の中でフロイトを下敷きに「生=快感原則」「死=ニルヴァーナ(涅槃)」と展開。そしてそれの仮定のもと「快感原則」と「ニルヴァーナ」の統合こそ必要であると主張している。
「生の本能(エロス)」とはいわゆる性欲、食欲、知的欲求など外側に向けられた衝動、「死の本能(タナトス)」とは自己を破壊しようとするという内側に向けられた衝動とフロイトは説く──── ここでいう「死の本能」とは新たなる生の為の破壊衝動よりも永久不変への憧憬が強いだろう。

「生」は時間の制約の中、死を怯えながら快感を求め続けなければならないのか。
「死」は時間の停止した中では永遠何の変化もなくそういった脅迫観念からは解放されるのではないか。
本来それらの衝動は同じものではなかったのか。
これらを再度統合することこそが私たちの夢であるのではないだろうか。

alum_never_die.jpg

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