Kiichiro Adachi

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陽光礼賛

作品を『震災』に結びつけることに抵抗があった。
それは安易に踏み込んでいいところでもなければ俯瞰できる程の歳月も経っていないと考えていたからだ。
とはいえ今現在日本に生きている私たちはそれから逃れることができるのか。
震災前・震災後。それは戦前・戦後の価値観の変容のように大きく時代を分けてしまっているからだ。

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震災を起因とした原発事故。日本のような小さな島国では1機の炉心溶融だけで国が終わると思っていたというのにそれが3機も同時に。
勿論電力会社の管理体制、事後処理などについても非難されるべきだろう。
しかしそれを除いても原子力は私たちの手に負えない事を多くの人は痛感した。

これに伴い多くの人を巻き込み原発反対運動が表面化した。
毎週のように都内の何処かで行われる反原発・脱原発デモ。
そして原子力に変わる代替案として再生可能(自然)エネルギーが挙げられた。
太陽光・風力・地熱・バイオマス・潮力・波力などといった非枯渇性資源を使ったものだ。

しかしそれを声高に叫べば叫ぶほど僕はある種の心地悪さを感じた。
まるで太古に私たち人類が神を想像しそれを崇拝したように自然エネルギーを掲げていると感じたからか。
自然エネルギーを使うことこそが人間と自然との共生方法だ、だから自然エネルギーは正義だ、原子力エネルギーは悪だという二項対立を築いた。
相対的に物事を考察すればどちらにもメリット・デメリットがあることは明らかだろう。
何かを発言したり運動をする場合にはテーゼたるものが必要だ、しかしそれを妄信し過ぎれば途端に宗教的な香りを醸し始める。

宗教が我々人類の歴史に果たしてきた最大の役割とは集団社会の形成、維持だろう。
多くの人々が集えば様々な民族的特徴や思想の違いから衝突は絶えない。
そこに宗教はイデオロギーを与え根底に共通項を持たせるという重要な役割を担ってきた。
その時宗教は人々が礼賛できるような権威的な装置を作る必要があった。
つまり象徴となり得る偶像や建築などだ。

神々は死に、資本主義経済の限界さえも見え隠れする現在に私たちは宗教に立ち戻ろうとしているのか。
ならば今私たちが掲げる効果的なものは権威的な対象となりうる装置だろうか。

僕はここで原子力やら自然エネルギーやらの善し悪しを言うつもりはない。
ただ僕はフラットな視点がほしいだけだ。

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今回のメイン作品のタイトルは「green generator no.03」。(no.01とno.02はスタディーモデル)
蛍光灯の光を受けファンに取り付けられたソーラーパネルでプロペラが回転する。
そして3連のファンを回転させそのエネルギーは蛍光灯を点灯させる。
まさに夢のエネルギー循環装置である。
勿論、自然エネルギーの非効率性から考えればこれが見せかけのものだとわかる。
自然エネルギーは今の技術ではまだ非効率なものであるし、礼賛する対象は見せかけで十分だ。

ggno03image.jpg

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明後日(6/9 Sat.)は現在グループ展をしているギャラリー(FUMA CONTEMPORARY TOKYO)にて参加作家4人とゲストにインディペンデントキュレーターの水田紗弥子氏を招いてトークイベントを行います。
その前に軽く文章をまとめてみました。
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