Kiichiro Adachi

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強制的なシフト

日に日に陽気な日が増すというのにそれを歓迎できない世間も珍しい。
言うまでもないが電力の不足が懸念されているからだ。
本当に不足しているのかどうか僕に知る術はないが、3月の時のように計画停電を行うのであればさらに経済はダメージを受けるだろう。

今から書くことは特に目新しい事でも突飛な事でもないだろう。
それでも書くのは自分の中でも起きたことを整理をしておきたかったからだ。

今までわたしたちが求めていた豊かさは高度経済成長期に夢見てバブル期に成就させたものを延々と引き継いでいるに過ぎない。
贅沢な品々と豊潤なエネルギーによる快適で利便性に富んだ生活、それらを幸福の定義として戦後私たちは歩んできた。
それに対するカウンターカルチャーも幾度と存在した。しかしどれもマジョリティーとなり得なかった。
そして近年ではエコやロハスなどと言うビジネスモデルもあったが、これはダイエットのように飽食暖衣な時代が許容した華奢な遊びに過ぎない。

しかしそれは強制的にシフトされ実現不可能となってしまった。
この地にいる限り今までと同じ幸福は物理的に叶わなくなったのだ。

それでも私たちは「幸福」であろうとするだろう。
とはいえ今までとは違う新しい可能性を探さなくてはならない。
僕にとってアートとは新たな可能性を開示・思考する為の装置だ。それが現実として私たちの日常に起こるのだ。

人は成長する過程で無数にあった可能性を取捨選択を繰り返し成長していく。
これはあるひとつの可能性を鋭利化させる為の有効な手段だ。
世界の国家も同じようにそれぞれの可能性を模索し歩んできた。
共産主義や資本主義といった様々な思想が生まれ理想への指針をたてた。
しかし完全なものなどなく幾度も行き詰まりを見せ、さらに新しい可能性を模索し続けている。
その為には革命や有能な指導者が必要であろう。
日本では安保闘争以降デモに参加する無意味さを徹底して教育され、国民が主体となるような革命の種は紡がれた。
さらに高齢化社会によって保守的な老人が増大し民主制の意義は希薄化され、新たな指導者も誕生し難い国になっていたのではないか。
このままでは緩やかに死んでいくのは時間の問題であった。

そんな時にこの強制的なシフトが訪れた。
これに私たちはどうリアクションするのか。
原発事故により様々なものが露呈し普段私たちが考えることのなかったものに考える機会が増えた。都内でも毎週のように原発デモが起こっている。
何が起こり何が変化するのか。そしてその中で私たち個人個人はどのようなアティチュードを示すのか。
私たちは変われるのか。
これで変わることができなければ私たちには望みはないのかもしれない。

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