Kiichiro Adachi

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携帯電話

アートとデザインを論じる事は難くも古今東西様々な評論家、作家たちにおこなわれてきた。
僕もアートとデザインの意味、差異、そして融和点等について自分なりにではあるが考察、解釈してみる事もある。
以下の文章は4年程前(2004年)に記したある作品の為のステイトメントだ。

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 アート側から見た場合、デザイン側はどのように映るのか。
一般論で言えば、商業のベース無くして存在し得ないという制作の意味での不純さが目に映ろう。
さらにそれは大衆を標的とするようなロー・アートのように。

 しかしアートも純粋芸術(ハイ・アート)の終焉と共に常に社会に反映させなければならなくなってしまい、大衆への同化を余儀なくされる。
それは皮肉にも自身の純粋性というものに懐疑的にならざるを得ない葛藤へと導く。

 この感情は社会での成功者であるデザインに対するアートの嫉妬と言えよう。
その嫉妬はポップ・アートを筆頭に、デザインの生み出した社会的地位の隙間に没落貴族(アート)は転がり込み続けている。

 一方、デザインは時に自らの作品をアーティスティック(芸術的)と形容し、アートという高尚さ、自由さを感じさせる言葉を身に纏いたいと欲する。
しかしそのフェイクファーの裏地には、大衆の欲望を満たす為に機能的であらなくてはならないという相反するサテン地を併せ持っている。
つまり決して本物の毛皮を纏おうとはしない。しかしこれらが織りなすフェイクファーのコートは非常に暖かく、安価で大衆を魅了し、そして利益は成金(デザイン)を潤わせている。


 ここで私は現在最も触れる機会の多いデザインの一つとして携帯電話を取り上げる。ありふれたキャッチコピーとともに次々と生産されるプロダクトデザイン。カメラに留まらず、テレビ、ラジオ、MP3プレーヤーやナビゲーションシステムといった、もはや携帯電話の範疇から大きくずれてしまった日本の携帯電話。機能的であるという事を一つの商品価値として見出すこのプロダクト製品をデザインと呼べるのだろうか?
 それを敢えてデザインと呼ぶならば、徹底的に昇華させよう。そうすればフェイクファーではなく、本物の毛皮を纏えるのだろうから。

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作品タイトルは「多機能携帯電話」。
これを書いた当時は日本の携帯電話が本来の意図とは反れ、ミュージックプレイヤー、テレビ、電子マネーなどといった様々な機能を背負わされガラパゴス的と言われるようになる日本の携帯電話事情へと大きく変容している最中だったと記憶している。
作品は携帯電話に新たな機能をプラスさせるというものだった。例えばサラリーマン用に「シェーバー付き携帯」女性用に「ドライヤー付き携帯」やアンテナが竿になった「釣り竿付き携帯」その他にも「カンナ付き携帯」「ライター付き携帯」等々。

先日ようやく日本で発売されたiPhone。それでふとこの作品の事を思い出した。
今後、携帯電話はどのような進化を遂げるのか。
近い未来、家ごと全て携帯する機能を有するようになるんじゃないかと予見するのは僕だけじゃないだろう。

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