Kiichiro Adachi

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犬の死

六月の最後の日、母親から電話があった。
母は「バジルが死んだ」と告げる。
実家で飼っていた愛犬のミニチュアシュナウザーだ。
涙声の母親に愁傷し、僕自身は悲嘆に暮れることなくただ事実を受けとめ頷くことしかできなかった。
電話を切った後、僕は思った。
一体僕はどれぐらいバジルの死を悼む資格があるのだろうか。この思考はインモラルと言われるかもしれない。
しかし今までバジルと過ごした日々を思い起こしても、バジルの写っている写真を見てもどうも上手く悲しめなかった。
飼い始めて2年で僕は大学で東京に出てきた。それ以来は年に数日しか共に過ごしていない。
それが原因だとは思えなかったが、妙に冷静になっている自分に悼む資格などない気がしたのだ。

翌日バジルの夢を見た。正確に云えば、バジルに関する夢だ。
室内で飼っていた為、家族が留守にするとテーブルの上のお菓子などを食べてしまう。
なので留守にする際にはいつもリビングへ通じる扉を閉めていた。
夢の中で僕たち家族は何処かに出かけようとしているようだった。
その時に父がもう扉を閉める必要はないと言う。扉は開け放たれたまま。
ただそれだけのなんの変哲もない夢であったが、目が覚めた後ようやく悲しさに包まれた。
死とはきっとこんな感じでのしかかってくるんだろう。

何かを介してるような遠回しの伝達が時には感情により訴えかけるのではないか。
例えば一度誰かに所有された物はその時の記憶、所有者の不在が刻まれる、クリスチャン・ボルタンスキーは作品にそれを取り込み鑑賞者をノスタルジックにする。
それに倣えば、バジルの死はバジルの写った写真よりもリビングの開け放たれたままの扉に宿る。
僕ならばどのようにそれを提示するのか。
そう考えてしまうことは死に対する冒涜か、死からの学習か。どちらにせよ不純な思考に思える。
しかしそれは創造に対する純粋性と捉えてもいいのか、もしくは詭弁に過ぎないのか。
いずれにせよ僕は思索にふける。

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