Kiichiro Adachi

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UNDER CONTROL

 地球には様々な民族や国家が共存しており、文化やそれを担う宗教、民族的特性には自然環境の差異が色濃く表れている。私たちは自然をどのようなものとして捉えてきたのか(※)。例えば中東のような過酷な砂漠環境においては自然は乗り越えるべき存在であった。ひとつの間違いが生命に関わるような環境において多くの神がいては選択に迷いが生じて死に至る、よって唯一神の存在が不可欠であったろう。欧州辺りの穏やかで過ごしやすい気候では人は自然を従順な対象として捉えた。その為に住環境も内と外を明確に隔てるように発達したし全ては征服できるものだという思考は至極当然であっただろう。高温多湿なインドでは自然は忍耐してやり過ごすことこそが賢明な選択であった。その中からヨガのような修行法が生まれたのかもしれない。
 日本はその温暖湿潤な気候のおかげで自然から多くのものを授かり、またその分多くの天災を見舞われてきた。痩せた海とも云われる地中海を取り囲む国々にとって海は交通手段であったのに対し日本を取り囲む海は4つの海流がぶつかり合う豊潤な海域であり食料の在り方そのものであった。その恩恵と畏怖が自然全てに神が宿ると捉えさせたのも頷けよう。自然を受け入れ自然と共に生きる、それ故に個よりも集団としての和が重んじられる。これが良くも悪くも日本だろう。
 近来の科学技術を使い私たちは自然を効率よく管理することを目指した。効率性こそ富の潤い、幸福に直結すると考えているからだ。高温多湿な気候もエアコンをつければ問題ないし、渇水問題もダムや輸送技術の向上により容易に解決できるようになった。かつてのように自然に合わせてライフスタイルを変更する必要はなくなった。人間の都合に合わせて自然を支配化(under control)におけばいいのだ。それに合わせた文化を築いていけばいいのだ。それが現代的自然観だろう。


これに基づいて今回展示している二つの作品(color space(CMY)、parabola formB)について説明する。



●color space (CMY)
 私たちは自然を彩る色彩も科学した。光は3つの色(R=レッド、G=グリーン、B=ブルー)から成っており全てを合わせると白色になること(加法混色)、絵の具や印刷物の色の三原色(C=シアン、M=マゼンダ、Y=イエロー)は混ぜると黒色になること(減法混色)を解き明かした。
sangenshoku_.jpg

 自然界に咲く色とりどりの花が人間が解き明かした色の秘密通りになるのだろうか?
この作品は色空間(color space)の通りになるようにそれぞれの領域に合わせた色の花が咲くように種子を植える。やがて種子が発芽し開花した時にそれは私たちの科学した通りの色空間となるのだろうか?
color_space_image.jpg
 印象派にジョルジュ・スーラという夭折の画家がいた。彼は絵の具は混ぜれば混ぜる程濁って暗くなってしまうことを嫌い、当時の最新であった絵画理論を取り入れ点描画へと辿り着いた。鑑賞者は画面上で混ぜ合わされた色を見るのではなく原色の点描は脳内で補完されることによって濁ることのない光の色彩を手に入れた。それは絵の具を使っているにも関わらず減法混合ではなく加法混色を目指した絵画であった。
 この「color space」も 小さな花々を網膜が点として捉えることができれば脳内で光の三原色として補完される可能性もゼロではないのではないか。そう思うと花が咲くのが待ち遠しい。いや、たぶん僕はそうならないこと、予期せぬことをもっと期待しているのかもしれない。この花壇に種が植えられ花が咲く、1周目はだいたいの想像がつくのかもしれない。しかし3,4年と経過した時にどのようになっているのか非常に楽しみだ。


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▲ジョルジュ・スーラ / グランド・ジャッド島の日曜の午後(1884-1886)
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▲ジョルジュ・スーラ / 海の景色 (1890)《拡大》


●parabola (formB)
 以前僕は木漏れ日を発生させる装置として「parabola」を作った。晴れた森の中、枝葉の隙間からこぼれ落ちる光。またその他の条件が重なればその光の筋も観測できる。そんなある種の神聖な体験を室内にて体験できるようにしたのがこの装置だ。光は神聖さとは程遠いミラーボール状の表面に反射し地面に落ちる。またそのミラーボール状の形状は光が集約するように凹形状をしている。凹形状はゆっくりと回転をするので光はゆらゆらと揺れ、さながら木漏れ日のようである。
 では一体どこに違いが生じるのだろうか。木漏れ日を構成する要素は単にその光にあるのではなく、森に住む小鳥のさえずりであったり時折吹くそよ風は木々をざわめかせうっすら肌に浮かんだ汗を乾かしてくれる。僕が作った人工の木漏れ日は小鳥のさえずりの代わりにモーター音が響き渡り、そよ風の代わりに肌にはエアコンの冷やされた風が当たる。
 この装置によって一応は手に入れた木漏れ日という自然現象に対し支配力をより強化する為にはどのようにすればいいのか。その為に古来より人間の用いてきた手段がある。それは「対決させること」である。古代はコロッセウムから(もしくはもっと昔から)その伝統はあり、支配階級に属するものはその不可侵な場所から罪悪感など微塵も感じることなく下層の生物(動物や奴隷、敵国人)を興味本位で対決させてきた。これを実行できる力を有することによって支配関係はより明確となるのである。

※参考文献:和辻哲郎「風土」

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虹の彼方へ

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 この作品のコンセプトが未だ自分の中でうまく消化しきれていない。これはセンシティブな問題を扱っている、かといって当たり前の正義を語ることはひどく退屈だ。そんな状態で作品を発表すべきでないという批判もあるだろう。実際に同シリーズのコンセプト(更に未熟な状態のもの)を過去にSNS上に載せたところ注意と非難を受けた。まあ僕の至らない説明と誤魔化しを含んだ説明のせいなので仕方ない。
 ただ自分勝手な都合から言えば展示したり文字にしたりすることで気づくことも多いにある。今から記していくことは恐らくまとまりに欠ける文章になるだろうし未だ語弊を生む表現が含まれているかもしれない。言い訳をこれ以上重ねても仕方ないし、とにかく自分の為に文章を書こうと思う。

 これは虹色の風を発生させる装置。しかし欧米に持っていけばレインボーフラッグとなりLGBT(レズ、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)の尊厳を守る為、そして多様性への理解を求めた運動の旗となる。この意味がほとんど通じない日本は悪い場所なのかといえばそんなことはないだろう。これは各々の国の歴史の差異が生んだものであり、日本のものを欧米に持っていった時に問題になるものは数多く存在する。
 例えばドラゴンボールのアニメにMr.ポポというターバンを巻いた肌が真っ黒な人物が出てくるが他国では黒人差別の観点から青い肌に変更されている場合がある。人気のビデオゲーム、ポケモンシリーズでも同じことが問題になった。ポケモンシリーズは基本的に二種類同時に発売するのだがその名称がブラックとホワイトだったことがあった。それ以外にも子供向けの戦隊モノ5人のヒーロー達はバラバラの人種に変更されている。
 このように単一民族国家のものを多人種国家に持っていけば様々な問題が表出する。では何故そのような差別が生まれたのかといえば、選民思想的な宗教や白人至上主義、奴隷を容認していた社会などと歴史を振り返れば無数に存在するだろう。いやここで特定の宗教や人種を批判を展開するつもりはない。話を戻す。
 差別撤廃や人権保護の観点から様々な規制や監視が入り私たちの行動や言動は制限を受けていく。同じ差別を繰り返さない為にそれに結びつく表現を控えるというのも理解できるが本来差別にならないものや時代の流れで差別表現ではなくなったものを無理矢理入れてしまおうとする連中がいるのも確かだ。それは臆病な者、もしくは差別からの利権を当てにしている者だ。後者は差別がいつまでも残ることを望む。彼らは被差別者故に批判を受けにくく、それどころか批判したものへの反撃も許されている。日本では一部の部落の同和問題やアイヌ問題などがそれに当たるだろう。その結果様々な発言や行動に制限がかかっていく。無駄に自由が奪われるのだ。
 もう少し話を戻す。LGBTの社会運動にレインボーフラッグがデザインされたのは1978年と比較的新しい。これを掲げ、またファッション化することで社会全体に認知される程の運動にまでなった。そして現在では法的にも同性婚が認められる国や州も出てきており、日本においても(法的ではないが)条例で容認しようとする自治体が出来てきていたりする。
やがて時が流れて同性愛などが当たり前となる時代が来るだろう。その時にはもうレインボーフラッグなどを掲げる必要はないのだ。虹は虹に返せばいい。しかし利権にしがみつく一定数の愚者はいつまでも同性愛差別がある社会を望みそれにまつわる言動行動の監視に努めるだろう。そして虹の旗を汚し続けるのである。いずれ空にかかる虹までを自分たちのものだと叫ぶかもしれない。
 僕のこの作品は虹色の風を発生させる装置である。レインボーフラッグとは関係なくこれは虹は虹である為に色んなものがまとわりつかないように回り続けているだけである。
そう、これはただの虹色の風を発生させる装置。

 関係ないがオズの魔法使いでジュディ・ガーランドが歌っていたあの歌が好きだ。虹の彼方へ……
Somewhere over the rainbow……
この作品のタイトルは “overdrive the rainbow” 。超回転、過励振する虹。


※励振(れいしん)=小さな振幅の刺激によって,大きな振幅の振動が引き起こされること。また,引き起こすこと。

木漏れ日


 晴れた日に森の中を歩く。太陽の光が樹々の重なり合った枝葉の隙間から、あるいは葉を透過してゆらゆらと地面に落ちる。その中に入れば光は柔らかく心地よいし、外から見てもその光の筋は何かしら特別な機会に触れられたようで心が踊る。私たちはそれを木漏れ日と呼ぶ。“パラボラ”はその木漏れ日の光だけを抽出した装置だ。木漏れ日の光だけを抽出するという行為、それは僕にとって観葉植物を部屋に置く行為に似ている。緑に囲まれた生活をしたい、しかし森の中に住むのは不便なのでイヤだ、それならば木を一本小さな鉢植えに入れて飾ろう。これが観葉植物を部屋に置くあらかたの理由なのだろう。

 以前僕は冬の寒空の下、イチョウの街路樹が立ち並ぶ道を車で走っていた。舗装された道路の両脇に等間隔でイチョウが植えられている。冬なのでイチョウの葉は一枚もない。僕にはそれが痛ましく見えた。勿論植物が動物と全然違う生物だということも理解しているつもりだが、もし植物と人間が反対の世界だったらこれはどういうことなのだろうかと考えた。その世界では景観がよくなるとかそういった理由で人間が道路に等間隔で一人ずつ立たされている。雨の日も風の日も誰とも話すこともできずに。そう考えてしまってから街路樹というものがおぞましいものに見えるようになった。

 とはいえ観葉植物や街路樹は美しい、そして私たちの生活を緑あるものに変えてくれる。それが森に住むことを疎んで生まれたものであるにも関わらず。そしてこの“パラボラ”も本来は晴れた森の中でしか得ることのできない木漏れ日を部屋にいて体験しようとしたものである。この光を人間のエゴだと捉えおぞましい対象として見るのか?それともこれを観葉植物のように美しいものとして捉えるのか?



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上の写真は制作中の「パラボラ」です。
またこの作品は現在箱根・彫刻の森美術館で行われている「ミーツ・アート 森の玉手箱展」にて展示されています。

******************
日時:2014年3月22日(土)~8月31日(日)
9:00~17:00(年中無休・入館は閉館の30分前まで)
会場:彫刻の森美術館 本館ギャラリー(一部、屋外展示場)

・参加作家(五十音順)
足立喜一朗、イチハラヒロコ、北川貴好、角野晃司、木村幸恵、しりあがり寿、谷川恭子、渡辺英司

六甲山の植物史

Life Balancer no.01を六甲山に設置するにあたって僕はどのような基準で植物を選定したか。秋口から冬にかけての展示ということで双方に落葉樹ではなく常緑樹を植えられている。
そして片方は常緑の広葉樹中心に、もう片方は常緑の針葉樹を中心になっている。

六甲山の歴史とはどういうものか。
麓はシイやカシなどの照葉樹林、山頂部はブナやミズナラなどの落葉広葉樹であったという。
ところが江戸時代に入ると伐採や山火事が原因で荒廃し、さらに江戸後期には神戸港開港の影響もあって禿げ山になってしまい土砂災害が増えた。それに危機を感じ1895年(明治28年)から治水目的とした緑化が進められ現在では1700種以上の植物が自生する自然豊かな山へと戻ったいう経緯がある。

しかしこの背景には1858年に締結された日米修好通商条約、いわゆる不平等条約の影響があったのだろう。この不平等条約にある外国人居留地制度によって六甲山に居留した外国人がより住みやすいようにリゾート開発も進めていった。リゾート地が禿げ山のままというのでは成り立たないのだから彼らが緑化計画の一旦を担っていたことは否定できない。
その際には彼らのふるさとであるイギリスやドイツ、アメリカの森も幾らかお手本になったのではないだろうか。

日清戦争などの勝利により日本の国際的価値が見直され1899年の不平等条約が解消され外国人居留地は日本に返還された。その後官民が入り乱れ六甲山を開発するようになって今に至ったわけである。
つまり不平等条約が六甲山を観光地としての基礎を作り、かつてあった自然を再生されたのは皮肉なことでなないだろうか。
──これは日本のその他の外国人居留地があった横浜、箱根、函館などにおいても見受けられる。

僕は広葉樹中心の植栽を「東洋の森」、針葉樹中心の植栽を「西洋の森」と名付け東洋と西洋の森の命の重さというものを天秤にかけた。

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LIFE BALANCER

命にはどうもそれぞれの重さというものがあるらしい。

私たちは野菜や動物の肉を食べそれをエネルギーに変えて生きる。
木を伐採して家を建てたり防寒の為に動物の革を剥いで身に纏う。
この辺りまでは他者の命の重さはどれも等しかったのかもしれない。

いつからか私たちは贅沢の為に利害関係の為に自由に命を奪うようになった。
はたまたその種が希少だと知るやいなや保護や増殖を試みたりする。
風習であったり宗教上の理由、またこれは頭のいい動物だからという理由で殺生を批難する場合もある。
これらは時代や地域差による倫理観、人生観、宗教観などによってどこまで可能か線引きされる。
しかし現代においてその線は非常に見えくくなっている。

例えば贅沢の為に他者の命を奪うことはどういうことなのか。
現在において、その命を奪う行為は誰かが請け負ってくれるので自らの手を汚す必要がない。
太らせて病気にしたガチョウの肝臓を食べる。優雅さを見せる為に毛皮のコートを羽織る。
贅沢とは文化が生んだ過剰な振る舞いのことで、人間として生まれたならばそこに憧れ溺れることも理解できる。
その贅沢は経済を回し、文化へと還元されるのだから。
だから憎むべきものかどうかは僕が決めることではなく各々が決めることだ。

命は平等だと偽善的に訴えてもやはり命に重さに違いはあるようだ。
この命の重さをはかることはできないか。
これは命の重さをはかる為の天秤である。
Life Balancer no.01

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