moon 1

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short statement

I regard my works as akin to toys. Toys exist to eliminate boredom and have no scientific accuracy or practical function. My works simulate natural phenomena through unreliable means or impractical experimental apparatuses.

私は自分の彫刻を玩具のようなものだと捉えている。玩具とは退屈を消すために存在しており、科学的な正確さや実用的機能を持ち合わせていない。私の作品もまた不正確な手段で再現された自然現象であったり実用性とは程遠い実験装置であったりする。

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disco ball

People dance and drink, flirt, and kick up noise, beneath the disco ball, striving to satisfy all kinds of desires. That glittering ball above the dance floor is a symbol of worldliness. But there was a moment it appeared to me as something sacred. Perhaps it was the fog of drink and drowsiness, or the split second of silence birthed by the DJ failing to transition smoothly between tracks. Whatever the case, an ordinary disco ball had seemed to me like a divine presence. The strange calm as though I were gazing at something spiritual, an astronomical event, or a rare natural phenomenon. The moment the ball—rotated by distraction, noise, desire, and chaos—turns to reveal itself as sublime, singular, mysterious, and absolute. The light refracted from the cheap mirrored tiles, creating the illusion of constellations. The ambiguous boundary between the worldly and divine brought to form by a disco ball. I dream of encountering that moment again.

人々はミラーボールの下で踊り、飲み、口説き、騒ぎあらゆる欲望を満たすことに努める。フロアに輝くミラーボールは僕にとって世俗たるものの象徴であった。しかしそれが神聖なものに見えた瞬間があった。それは泥酔睡魔による朦朧とした意識のせいだったのかもしれない、DJがレコードの繋ぎに失敗した僅かばかりの静寂のせいだったのかもしれない。ともあれかくあれ、ありふれたミラーボールが神々しい存在に見えてしまったのだ。何か宗教がかった力、天文ショーや稀有な自然現象を眺めるような不思議な静けさ。雑念、喧騒、欲望、混沌を糧に回転するミラーボールが崇高、孤高、神秘、絶対的な力へと反転する瞬間。チープなはずのミラーの反射光を宇宙の星々と錯覚してしまうかもしれない。世俗的なものと神聖なものの境界の曖昧さの正体。この瞬間に再会することを僕は夢見る。

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Art-in-Buildings by Time Equities Inc.
Solo Exhibition "cluster" in the AiB Gallery at Travelers Towers
Nov.21, 2018 - May.31, 2019
26555 Evergreen Rd, Southfield, MI 48076

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ミラーボール

 学生の頃からクラブにしばしば遊びに行っていた。クラブ好きな友達が多かったことも影響しているのだろう。仲の良い友達と酒を飲み大音量の中に身を任せることは空っぽになって大層気持ちいい。友達が徐々に大きな場所で出番が増えるのも嬉しかった。クラブに行くことは大学時代のひとつの楽しみでもあった。しかし、本当のことを言えば僕はクラブがあまり好きではなかった。クラブには僕の苦手な要素がいくつも含まれているためだ。まず初めに僕は踊りというものが大の苦手だ。ホールに誰も踊ってなかったら踊りたくはない。酒の助力も必要となる。

 そういえばe.e.no.24という作品もそんなところから生まれた。この作品は電話ボックスを一人用のディスコに改造したもので頭上のミラーボール、フロアライト、ヘッドホンから流れるダンスミュージック、そして4面のガラスはマジックミラーになっている。その為に内側からは鏡状になっている為に外界は見えないが、外側から内部は丸見えなのである。それを街中に設置し通りすがりの人が体験できるようにするという作品である。
 この作品を作った動機は何か。美大生芸大生というものはとかく個性というものを謳いたがる。その多くは突飛な行為を個性と勘違いして稚拙な初動から始めるものもいるが僕はそれを否定する気はない。なぜならそこから自己陶酔に陥り己が道を切り開く可能性を秘めているからだ。現代社会においても個人主義を基礎とする西洋流の思想が流れ込んで早百数十年。個人主義の重みを体感し、なお私たちはそれを超克することができるのかというのが作品のコンセプト。少しわかりにい。簡単にいえば集団だと騒げても一人になったら何もできないんじゃないの?一人でもできたら最高だぜ?

 では話を少し戻して、、、クラブとは男が女を積極的に誘うことも女は男を淫らに惑わすことも許された場所である。もちろんそんな連中ばかりでないことも理解している。音楽を楽しみに来てる層も大勢いる。僕は自分のことが硬派な人間だとは思わないがそういった現場を目撃してしまうとどうもげんなりしてしまうのだ。なんと低俗な空間にいるのだろうと。今ならそれも楽しめるが世俗的なことを遠ざけていた古典的で模範的な美大生だった僕にとってそこはまさに人の欲望が蠢くおぞましい密室であり、その同空間にて興じている自分を発見し自己嫌悪へと駆り立てるのだ。もしかしたらそれは初対面の人と話すのが苦手な人間の作り出した単なる理屈づけなのかもしれないが。

そして東京といえど郊外に住んでいた僕はクラブに人が流れ込んでくる12時過ぎにはもう終電がなくなってしまう。よってその日の盛り上がりにかかわらず始発を待つ羽目になる。なら居酒屋や誰かの家で過ごせばいいじゃないかというかもしれないがどのみち帰れるわけでもないしタクシーに乗るなど以っての外だ。
友達と話すのもどうも気が乗らないという日もある。なら煙草でも吸いながら酒を飲むしかなくなる。そして無意味にクラブ内の観察を始める。巧みに空っぽな言葉で誘う男、面白くもないのに笑う女、無駄に多いボディタッチ、無表情なバーテン、目つきの鋭いスタッフ、酔っ払いに雑に扱われたソファ、暗すぎる照明、グルグルと忙しく動くムービングヘッド、明滅するフラッシュ、時折放たれるスモーク、そしてどのクラブにも必ず頭上にはミラーボールが吊るされていた。律動爆々とした音楽を背景にミラーボールが回転する時は安っぽい色とりどりのライトがそれを下品に照らす。それは僕にとって街のあらゆる世俗風俗を引き寄せて出来上がった純粋な欲望の塊そのものだった。



 しかしその欲望の塊が神聖なものに見えた瞬間があった。それは泥酔睡魔による朦朧とした意識のせいだったのかもしれない、レコードの繋ぎに失敗した僅かばかりの静寂のせいだったのかもしれない。ともあれかくあれ世俗の象徴たるミラーボールが神々しい存在に見えてしまったのだ。何か宗教がかった力、天文ショーや稀有な自然現象を眺めるような不思議な静けさ。雑念、喧騒、欲望、混沌を糧に回転するミラーボールが崇高、孤高、神秘、絶対的な力へと反転する瞬間。チープなはずのミラーの反射光を宇宙の星々と錯覚してしまうかもしれない。世俗的なものと神聖なものの曖昧さの正体。この瞬間に再会することを僕は夢見る。

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space travel

If mankind were to expand out into space and live there for a long time, what would we pursue next. It’s suitable you imagine the moon base, space colonies floating through space, and the interstellar travel. These spaces are composed only of artificial elements, completely isolated from space. We would probably try to simulate the environments of places where we spent time at on the earth in order to reclaim a little peace of mind. The room surrounded by plants, adorable pet, furthermore I would be satisfied if I can experience the natural phenomenon like a rainbow, sunshine and so on. If we spends a long time in space, instead of looking at the sunset behind skyscrapers or the waves on the shore, we may start feeling nostalgia for the warped galaxy or the back and forth of man-made satellites floating through the sky.
My work is a device to help mankind survive in the coming space age.


人類が宇宙へ進出し長期間住むようになれば、私たちはそこに何を求めるのだろうか。月面基地や宇宙空間に浮かぶコロニー、星間旅行を思い浮かべてもらえばいい。それらは完全に宇宙から隔離された人工的な要素のみで構成された空間である。私たちは少しでも安らぎを得るために地球上で過ごした環境の再現に努めるだろう。植物に囲まれた部屋、愛らしいペット、虹や雨の自然現象が体験できるなら万々歳だ。これで私たちは少しばかりの平安を手にいれる。宇宙生活が長くなれば、浜辺に打ち寄せる波や摩天楼に沈む夕焼けを眺める代わりに銀河のうねりや行き交う人工衛星に郷愁を覚えるようになるのかもしれない。
私の作品は来るべき宇宙時代において人類が生存する為の装置である。

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UNDER CONTROL

 地球には様々な民族や国家が共存しており、文化やそれを担う宗教、民族的特性には自然環境の差異が色濃く表れている。私たちは自然をどのようなものとして捉えてきたのか(※)。例えば中東のような過酷な砂漠環境においては自然は乗り越えるべき存在であった。ひとつの間違いが生命に関わるような環境において多くの神がいては選択に迷いが生じて死に至る、よって唯一神の存在が不可欠であったろう。欧州辺りの穏やかで過ごしやすい気候では人は自然を従順な対象として捉えた。その為に住環境も内と外を明確に隔てるように発達したし全ては征服できるものだという思考は至極当然であっただろう。高温多湿なインドでは自然は忍耐してやり過ごすことこそが賢明な選択であった。その中からヨガのような修行法が生まれたのかもしれない。
 日本はその温暖湿潤な気候のおかげで自然から多くのものを授かり、またその分多くの天災を見舞われてきた。痩せた海とも云われる地中海を取り囲む国々にとって海は交通手段であったのに対し日本を取り囲む海は4つの海流がぶつかり合う豊潤な海域であり食料の在り方そのものであった。その恩恵と畏怖が自然全てに神が宿ると捉えさせたのも頷けよう。自然を受け入れ自然と共に生きる、それ故に個よりも集団としての和が重んじられる。これが良くも悪くも日本だろう。
 近来の科学技術を使い私たちは自然を効率よく管理することを目指した。効率性こそ富の潤い、幸福に直結すると考えているからだ。高温多湿な気候もエアコンをつければ問題ないし、渇水問題もダムや輸送技術の向上により容易に解決できるようになった。かつてのように自然に合わせてライフスタイルを変更する必要はなくなった。人間の都合に合わせて自然を支配化(under control)におけばいいのだ。それに合わせた文化を築いていけばいいのだ。それが現代的自然観だろう。


これに基づいて今回展示している二つの作品(color space(CMY)、parabola formB)について説明する。



●color space (CMY)
 私たちは自然を彩る色彩も科学した。光は3つの色(R=レッド、G=グリーン、B=ブルー)から成っており全てを合わせると白色になること(加法混色)、絵の具や印刷物の色の三原色(C=シアン、M=マゼンダ、Y=イエロー)は混ぜると黒色になること(減法混色)を解き明かした。
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 自然界に咲く色とりどりの花が人間が解き明かした色の秘密通りになるのだろうか?
この作品は色空間(color space)の通りになるようにそれぞれの領域に合わせた色の花が咲くように種子を植える。やがて種子が発芽し開花した時にそれは私たちの科学した通りの色空間となるのだろうか?
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 印象派にジョルジュ・スーラという夭折の画家がいた。彼は絵の具は混ぜれば混ぜる程濁って暗くなってしまうことを嫌い、当時の最新であった絵画理論を取り入れ点描画へと辿り着いた。鑑賞者は画面上で混ぜ合わされた色を見るのではなく原色の点描は脳内で補完されることによって濁ることのない光の色彩を手に入れた。それは絵の具を使っているにも関わらず減法混合ではなく加法混色を目指した絵画であった。
 この「color space」も 小さな花々を網膜が点として捉えることができれば脳内で光の三原色として補完される可能性もゼロではないのではないか。そう思うと花が咲くのが待ち遠しい。いや、たぶん僕はそうならないこと、予期せぬことをもっと期待しているのかもしれない。この花壇に種が植えられ花が咲く、1周目はだいたいの想像がつくのかもしれない。しかし3,4年と経過した時にどのようになっているのか非常に楽しみだ。


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▲ジョルジュ・スーラ / グランド・ジャッド島の日曜の午後(1884-1886)
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▲ジョルジュ・スーラ / 海の景色 (1890)《拡大》


●parabola (formB)
 以前僕は木漏れ日を発生させる装置として「parabola」を作った。晴れた森の中、枝葉の隙間からこぼれ落ちる光。またその他の条件が重なればその光の筋も観測できる。そんなある種の神聖な体験を室内にて体験できるようにしたのがこの装置だ。光は神聖さとは程遠いミラーボール状の表面に反射し地面に落ちる。またそのミラーボール状の形状は光が集約するように凹形状をしている。凹形状はゆっくりと回転をするので光はゆらゆらと揺れ、さながら木漏れ日のようである。
 では一体どこに違いが生じるのだろうか。木漏れ日を構成する要素は単にその光にあるのではなく、森に住む小鳥のさえずりであったり時折吹くそよ風は木々をざわめかせうっすら肌に浮かんだ汗を乾かしてくれる。僕が作った人工の木漏れ日は小鳥のさえずりの代わりにモーター音が響き渡り、そよ風の代わりに肌にはエアコンの冷やされた風が当たる。
 この装置によって一応は手に入れた木漏れ日という自然現象に対し支配力をより強化する為にはどのようにすればいいのか。その為に古来より人間の用いてきた手段がある。それは「対決させること」である。古代はコロッセウムから(もしくはもっと昔から)その伝統はあり、支配階級に属するものはその不可侵な場所から罪悪感など微塵も感じることなく下層の生物(動物や奴隷、敵国人)を興味本位で対決させてきた。これを実行できる力を有することによって支配関係はより明確となるのである。

※参考文献:和辻哲郎「風土」

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