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ソンタグ
先日、本棚から久しぶりにスーザン・ソンタグの「良心の領界」を引きずり出し読み直した。下に記したのは彼女の最期の著になるその序に書かれている文章。
心が濁ったり不安定になったときに読みたくなる。
こんなにわかりやすく、知に富んだ文章があるだろうか。
少し長いが畏敬の念を込めてここに全文引用させてもらいます。
若い読者へのアドバイス……(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)
人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。
注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのものまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと───社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は自己検閲です。
本をたくさん読んでください。本には何かおおきなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値がありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力しください。たとえば、「戦争」というような言葉。
自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券ももたず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。
自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません───女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分にかされた何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
良心の領界を守ってください……。
二〇〇四年二月
スーザン・ソンタグ
良心の領界/(著者)スーザン・ソンタグ、(翻訳)木幡和枝
NTT出版

心が濁ったり不安定になったときに読みたくなる。
こんなにわかりやすく、知に富んだ文章があるだろうか。
少し長いが畏敬の念を込めてここに全文引用させてもらいます。
若い読者へのアドバイス……(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)
人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。
注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのものまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと───社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は自己検閲です。
本をたくさん読んでください。本には何かおおきなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値がありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力しください。たとえば、「戦争」というような言葉。
自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券ももたず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。
自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません───女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分にかされた何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
良心の領界を守ってください……。
二〇〇四年二月
スーザン・ソンタグ
良心の領界/(著者)スーザン・ソンタグ、(翻訳)木幡和枝
NTT出版

ジャニス
Janis Joplin
僕が最も敬愛するミュージシャン。
初めて聴いた時、魂を削りながら歌うとはこういうものなんだと思った。
そして今尚聴いてもそれは変わらない。
陳腐な表現でしか言い表せないのが忍びないが、いや、ここで文学的表現を用いて書き示す事に何の意味があろう。
人の悪いクセは自身の琴線に触れるものをどうにかして理解したくてそれを説明しようとするところにある。
本当に心を握り潰してしまうような作品はどんな形容や解読も空しいのに。
それでも私たちは第三者にそれを伝えたくておぼろでも形を掴みたくて培ってきた言葉や拝借してきた言葉などを合成してそれを説明することに努める。それを人の美徳と呼べるのかもしれないが、たいがいのものは鮮度が失われてしまったり、内容自体を変質させてしまったりしている。
だから結局はその感動をありふれた言葉や使い古された言い回しを使うほかなくなってしまうのかもしれない。
ジャニスの遺作となったアルバム「PEARL」に有名な逸話がある。
この中に一曲だけインストゥルメンタルの曲がある。
本来は歌も入れる予定であったが、彼女は収録日の朝にホテルで死亡しているのが見つかったため(ヘロイン中毒とされている)それは叶わなかった。
そしてその曲のタイトルが「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」。
もちろんこれは彼女の伝説を補足する為の一面であって魂の削って云々は直接関係ない。しかし名を刻んだ多くの人物がこのような自分の力ではどうすることもできない「運」に支配されていることを見過ごせない。
僕は別に死への憧憬や退廃への讃歌などは持ち合わせていないが、アートというものが人生そのものだというのなら僕にとってアートというものがこういうものであってほしいと願う。
そう、作る作品の一つ一つが僕の魂を削ってできているものであればと願う。

僕が最も敬愛するミュージシャン。
初めて聴いた時、魂を削りながら歌うとはこういうものなんだと思った。
そして今尚聴いてもそれは変わらない。
陳腐な表現でしか言い表せないのが忍びないが、いや、ここで文学的表現を用いて書き示す事に何の意味があろう。
人の悪いクセは自身の琴線に触れるものをどうにかして理解したくてそれを説明しようとするところにある。
本当に心を握り潰してしまうような作品はどんな形容や解読も空しいのに。
それでも私たちは第三者にそれを伝えたくておぼろでも形を掴みたくて培ってきた言葉や拝借してきた言葉などを合成してそれを説明することに努める。それを人の美徳と呼べるのかもしれないが、たいがいのものは鮮度が失われてしまったり、内容自体を変質させてしまったりしている。
だから結局はその感動をありふれた言葉や使い古された言い回しを使うほかなくなってしまうのかもしれない。
ジャニスの遺作となったアルバム「PEARL」に有名な逸話がある。
この中に一曲だけインストゥルメンタルの曲がある。
本来は歌も入れる予定であったが、彼女は収録日の朝にホテルで死亡しているのが見つかったため(ヘロイン中毒とされている)それは叶わなかった。
そしてその曲のタイトルが「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」。
もちろんこれは彼女の伝説を補足する為の一面であって魂の削って云々は直接関係ない。しかし名を刻んだ多くの人物がこのような自分の力ではどうすることもできない「運」に支配されていることを見過ごせない。
僕は別に死への憧憬や退廃への讃歌などは持ち合わせていないが、アートというものが人生そのものだというのなら僕にとってアートというものがこういうものであってほしいと願う。
そう、作る作品の一つ一つが僕の魂を削ってできているものであればと願う。

シャングリラ

今回の展覧会名になっている「Shangri-La」、すなわち理想郷です。
私たちの求める理想郷とはいったい何なのでしょうか。
またそれはどのようにして私たちの心を満たしてくれるのでしょうか。
一つの可能性として、街に住む私たちは緑に囲まれることを望んでいるのかもしれません。
またそれは森や草原のようなものではなく人工の力で制御された植物で心を満たそうとするのではないでしょうか。
例えば観葉植物を部屋に置くように。
しかしそれで心が満たされるのではあれば誰がそれを非難できるのでしょう。
私たちはたとえそれが見せかけの楽園だと理解していてもそれを受け入れるのではないでしょうか。
/個展のDMに記載された文章より。
「エコ、ロハス」
これらの言葉が今回の個展でのテーマになっているものだ。
ここでは便宜上個々の言及は避け、一括りのものとして話を進めていく。
正直のところこれに対してどう発言するかには躊躇してしまう。
否定する必要もないと思うが、嫌悪してしまうことも多々ある。
学者が云うに今のままの生活を全人類がこの先ずっとしていくことは不可能だそう。
だから「エコ、ロハス」これらの言葉がビジネスコンセプトであって流行りから人の習慣に浸透していったとしても問題ないと思う。
世に飛び交う言葉は否応無しに私たちを浸食していくのだから。
無駄なものはいらない、健康は素晴らしい、そういった思想を当たり前のごとく持ち得るのかもしれない。
そうなれば私たちの探し求める楽園として刷り込まれたことになるんだろう。
とはいえ昔から僕は部屋に観葉植物を置く事さえも嫌いだった。
歯医者の待合室に置かれていたゴムの木の葉に埃が積もっていたのを見たからかもしれない。
幼い頃住んでいたマンションのリビングにあったパキラの植木に挿された栄養剤が点滴に見えたからかもしれない。
屋上が室外機で埋め尽くされ一日中唸りをあげているデパートの中にエコを謳っているお店が入る。
雨の日はそんなお店で買った小洒落た傘と小洒落た長靴を履いて代官山の小洒落たカフェで有機栽培された健康的なサラダを食べましょう。
晴れた日はかわいい服を着せた犬を綺麗に塗られたマニキュアの手で抱き上げたら車で少し郊外にでも行ってのんびりしましょう。
多くの人はそんな楽園が見せかけのものだという事ぐらい理解している。
はりぼての楽園だ。
だからゴムの木の埃やパキラの栄養剤で簡単に穴が空いてしまう。
それでも私たちはそれを楽園と思い描き、夢見るのか。
もし僕も「エコ、ロハス」が楽園だと信じていたらどうだろう。
いや、少なからず信じているかもしれない。
手に入れた文明をかなぐり捨てて自然に帰るなんて勇気を僕は持ち合わせていない。
かと言って楽園に憧れない訳ではない。
だとしたらそれの大半が見せかけの楽園だと理解した上で敢えて向かうのだろうか。
そう、きっと僕は悦楽に溺れる虚構を望む。
そして「エコ、ロハス」を賞賛・喝采し、理想郷と呼ばれる世界を創りたいと望むだろう。
我々人類の為の楽園を。
******************
シャングリラ @ZAIM
2009年2月27日(金)〜3月8日(日)
11:00-19:00
opening party : 2月28日19:00~

バスタブと土

昨日アトリエに行く途中で見かけた。
道路に捨てられたバスタブいっぱいに土が詰められ雑草が生えている。
郊外の街にはよくバスタブが道端に放置されてるのを見かける。
それらは不愉快に僕の目に飛び込んでくる。
バスタブは浴室にあるもので道端にあるものではないからだ。
道端では全くもって機能しない。よって回収されない粗大ゴミとして僕の目には映る。
しかしこの土いっぱいのバスタブは特異な光景であったにもかかわらず街に溶け込んでいた。
明らかに人為的である。一体誰が何の目的でしたのか。
もしこれが道にあるのが目障りだと感じた中年男性の仕業だとしたら、
その中年男性は自らが住む街を誰よりも愛している。
その街から生まれたゴミすらもその街の一部にしてやるということは誰にでもできるものではない。
もしこれが花壇代わりにしようとした主婦の仕業だとしたら、
その主婦の環境に対する考えには感服するものがある。
人間の出したゴミを仲介に自然との距離をつめる。これこそが調和、共存といったものではないだろうか。
もしこれが退屈しのぎで遊んだ子供たちの仕業だとしたら、
その子供たちは遊び方をよく知っている。
彼らにとって街全てが玩具箱になるのだから。(なんて使い古された言い回し!)
以上3例は適当に書いたことなのでどうでもいい事だとして、
この光景、ちょっとだけ次の展示のイメージに近い気がする。




