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ありふれた友情の話
僕が僕自身の現状に滞りを感じている時、苛立っている時に夢によく出てくる人物がいる。
彼は大学時代共に野を駆け山を駆け回った友人だった。実際に彼は僕のことをどう思っていたかは知る由もないが僕は記憶の中からこのように受け取っている。ボロアパートに白熱球、安酒にレコード、世紀も跨ごうとしているのにそんな昭和の香りが立ち込めた部屋で夜が更けるまでくだらない話で盛り上がった。熱くなりすぎた僕らはアートパフォーマンスと称して街に出て警察に捕まったり、そして女が好きで数々の阿呆な事もした。
今思えば僕は彼に憧れていたんだろう。彼はよく仰々しく人を誉めた、またよく侮蔑した。彼の知性に衒学っぷりに、社交性の高さに逃避癖に、そして何よりもその行動力に。
僕にアートを教えてくれたのもまた彼だった。
彼は何かを整理したかったのか一度部屋にある一切のものを捨ててしまった、それは僕に今もなお守るべきものがないことを教えてくれる。
学科の違った僕たちは大学も3年4年となりあまり会わなくなった。
卒業間近に彼と呑んだ時に学内に展示していた僕の卒業制作を見かけたようで、いつものように絶賛してくれた。
最後に連絡をとったのは6年程前だった。彼は一体今何処で何をしているのだろうか。
若干知りたくはあるが僕は探したくない。
未だにアートをやっているのかもしれないし、世界のどこかを旅しているのかもしれないし、(全く想像できないが)会社なんかで働いているのかもしれない。元気でやっているのならばそれでいい。
いずれ会う時が来るだろうし、その時に堂々と会えたら僕はそれで十分だ。
その時の為に僕は今やるべきことをやろう。

彼は大学時代共に野を駆け山を駆け回った友人だった。実際に彼は僕のことをどう思っていたかは知る由もないが僕は記憶の中からこのように受け取っている。ボロアパートに白熱球、安酒にレコード、世紀も跨ごうとしているのにそんな昭和の香りが立ち込めた部屋で夜が更けるまでくだらない話で盛り上がった。熱くなりすぎた僕らはアートパフォーマンスと称して街に出て警察に捕まったり、そして女が好きで数々の阿呆な事もした。
今思えば僕は彼に憧れていたんだろう。彼はよく仰々しく人を誉めた、またよく侮蔑した。彼の知性に衒学っぷりに、社交性の高さに逃避癖に、そして何よりもその行動力に。
僕にアートを教えてくれたのもまた彼だった。
彼は何かを整理したかったのか一度部屋にある一切のものを捨ててしまった、それは僕に今もなお守るべきものがないことを教えてくれる。
学科の違った僕たちは大学も3年4年となりあまり会わなくなった。
卒業間近に彼と呑んだ時に学内に展示していた僕の卒業制作を見かけたようで、いつものように絶賛してくれた。
最後に連絡をとったのは6年程前だった。彼は一体今何処で何をしているのだろうか。
若干知りたくはあるが僕は探したくない。
未だにアートをやっているのかもしれないし、世界のどこかを旅しているのかもしれないし、(全く想像できないが)会社なんかで働いているのかもしれない。元気でやっているのならばそれでいい。
いずれ会う時が来るだろうし、その時に堂々と会えたら僕はそれで十分だ。
その時の為に僕は今やるべきことをやろう。

メローイエロー
例年より早い時期に到来した台風は長い間雨を降らせている。
どうやら今年の夏も終わってしまったようだ。
どうもブログをあげるタイミングを忘れてて二ヶ月も前に書いたものを今更ながら上げる。
特筆すべき事もないが、僕のブログはいつだってそんなものだ。
********************************
最近復刻したというメローイエローという炭酸飲料を飲んだ。
「こんな味だったっけ?」
と思ったが、幼い頃飲んでいた記憶はあるものの味は覚えていなかったことに気づいた。
僕の記憶の多くは中身が空っぽになっていて空き瓶のような形骸だけなのだろう。
僕は幼少の頃、何を感じて何を考えていたのか説明できない。
それは謎めいた不可思議なものではなくて何も考えていなかっただけな気がする。
小学生の頃、朝顔を何を思って育てていたのだろう。
何を思ってミニ四駆を改造してたのだろう。
それらは血となり肉となっているのだろうから何かに直接繋がっていると考える方が野暮だと言われればそれまでだ。
でもどうも腑に落ちない。
最近プールによく行くのだが、プールの匂いや音、水をかく感覚が過去の記憶に結びつく。
小学校の頃、スイミングスクールを通っていたこともあって泳ぐのはそれなりに得意だったが、どうすれば早く泳げるかなんて考えたこともなかった。
今はどのようにすれば速く泳げるのか、疲れずに泳げるのかと頭で考えながら四肢を動かすのが楽しい。
しかしそれら思考に気付く度に僕は少し落ち込んだ。そして過去の何も考えていなかった自分を疎んだ。
一体僕はいつまで動物だったんだろうと。
しかし美化された記憶はキラキラした空き瓶のような形骸に触れさせようとする。
憎悪と愛執を孕んだ気味の悪い感情が僕にとってのノスタルジーだ。
とはいえ、未だに僕は物事をきっちり考えることができてるかなど甚だ疑問だ。
何かと再会する時に同じ感情を持てれば成長しているという事にしておこう。

どうやら今年の夏も終わってしまったようだ。
どうもブログをあげるタイミングを忘れてて二ヶ月も前に書いたものを今更ながら上げる。
特筆すべき事もないが、僕のブログはいつだってそんなものだ。
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最近復刻したというメローイエローという炭酸飲料を飲んだ。
「こんな味だったっけ?」
と思ったが、幼い頃飲んでいた記憶はあるものの味は覚えていなかったことに気づいた。
僕の記憶の多くは中身が空っぽになっていて空き瓶のような形骸だけなのだろう。
僕は幼少の頃、何を感じて何を考えていたのか説明できない。
それは謎めいた不可思議なものではなくて何も考えていなかっただけな気がする。
小学生の頃、朝顔を何を思って育てていたのだろう。
何を思ってミニ四駆を改造してたのだろう。
それらは血となり肉となっているのだろうから何かに直接繋がっていると考える方が野暮だと言われればそれまでだ。
でもどうも腑に落ちない。
最近プールによく行くのだが、プールの匂いや音、水をかく感覚が過去の記憶に結びつく。
小学校の頃、スイミングスクールを通っていたこともあって泳ぐのはそれなりに得意だったが、どうすれば早く泳げるかなんて考えたこともなかった。
今はどのようにすれば速く泳げるのか、疲れずに泳げるのかと頭で考えながら四肢を動かすのが楽しい。
しかしそれら思考に気付く度に僕は少し落ち込んだ。そして過去の何も考えていなかった自分を疎んだ。
一体僕はいつまで動物だったんだろうと。
しかし美化された記憶はキラキラした空き瓶のような形骸に触れさせようとする。
憎悪と愛執を孕んだ気味の悪い感情が僕にとってのノスタルジーだ。
とはいえ、未だに僕は物事をきっちり考えることができてるかなど甚だ疑問だ。
何かと再会する時に同じ感情を持てれば成長しているという事にしておこう。

強制的なシフト
日に日に陽気な日が増すというのにそれを歓迎できない世間も珍しい。
言うまでもないが電力の不足が懸念されているからだ。
本当に不足しているのかどうか僕に知る術はないが、3月の時のように計画停電を行うのであればさらに経済はダメージを受けるだろう。
今から書くことは特に目新しい事でも突飛な事でもないだろう。
それでも書くのは自分の中でも起きたことを整理をしておきたかったからだ。
今までわたしたちが求めていた豊かさは高度経済成長期に夢見てバブル期に成就させたものを延々と引き継いでいるに過ぎない。
贅沢な品々と豊潤なエネルギーによる快適で利便性に富んだ生活、それらを幸福の定義として戦後私たちは歩んできた。
それに対するカウンターカルチャーも幾度と存在した。しかしどれもマジョリティーとなり得なかった。
そして近年ではエコやロハスなどと言うビジネスモデルもあったが、これはダイエットのように飽食暖衣な時代が許容した華奢な遊びに過ぎない。
しかしそれは強制的にシフトされ実現不可能となってしまった。
この地にいる限り今までと同じ幸福は物理的に叶わなくなったのだ。
それでも私たちは「幸福」であろうとするだろう。
とはいえ今までとは違う新しい可能性を探さなくてはならない。
僕にとってアートとは新たな可能性を開示・思考する為の装置だ。それが現実として私たちの日常に起こるのだ。
人は成長する過程で無数にあった可能性を取捨選択を繰り返し成長していく。
これはあるひとつの可能性を鋭利化させる為の有効な手段だ。
世界の国家も同じようにそれぞれの可能性を模索し歩んできた。
共産主義や資本主義といった様々な思想が生まれ理想への指針をたてた。
しかし完全なものなどなく幾度も行き詰まりを見せ、さらに新しい可能性を模索し続けている。
その為には革命や有能な指導者が必要であろう。
日本では安保闘争以降デモに参加する無意味さを徹底して教育され、国民が主体となるような革命の種は紡がれた。
さらに高齢化社会によって保守的な老人が増大し民主制の意義は希薄化され、新たな指導者も誕生し難い国になっていたのではないか。
このままでは緩やかに死んでいくのは時間の問題であった。
そんな時にこの強制的なシフトが訪れた。
これに私たちはどうリアクションするのか。
原発事故により様々なものが露呈し普段私たちが考えることのなかったものに考える機会が増えた。都内でも毎週のように原発デモが起こっている。
何が起こり何が変化するのか。そしてその中で私たち個人個人はどのようなアティチュードを示すのか。
私たちは変われるのか。
これで変わることができなければ私たちには望みはないのかもしれない。

言うまでもないが電力の不足が懸念されているからだ。
本当に不足しているのかどうか僕に知る術はないが、3月の時のように計画停電を行うのであればさらに経済はダメージを受けるだろう。
今から書くことは特に目新しい事でも突飛な事でもないだろう。
それでも書くのは自分の中でも起きたことを整理をしておきたかったからだ。
今までわたしたちが求めていた豊かさは高度経済成長期に夢見てバブル期に成就させたものを延々と引き継いでいるに過ぎない。
贅沢な品々と豊潤なエネルギーによる快適で利便性に富んだ生活、それらを幸福の定義として戦後私たちは歩んできた。
それに対するカウンターカルチャーも幾度と存在した。しかしどれもマジョリティーとなり得なかった。
そして近年ではエコやロハスなどと言うビジネスモデルもあったが、これはダイエットのように飽食暖衣な時代が許容した華奢な遊びに過ぎない。
しかしそれは強制的にシフトされ実現不可能となってしまった。
この地にいる限り今までと同じ幸福は物理的に叶わなくなったのだ。
それでも私たちは「幸福」であろうとするだろう。
とはいえ今までとは違う新しい可能性を探さなくてはならない。
僕にとってアートとは新たな可能性を開示・思考する為の装置だ。それが現実として私たちの日常に起こるのだ。
人は成長する過程で無数にあった可能性を取捨選択を繰り返し成長していく。
これはあるひとつの可能性を鋭利化させる為の有効な手段だ。
世界の国家も同じようにそれぞれの可能性を模索し歩んできた。
共産主義や資本主義といった様々な思想が生まれ理想への指針をたてた。
しかし完全なものなどなく幾度も行き詰まりを見せ、さらに新しい可能性を模索し続けている。
その為には革命や有能な指導者が必要であろう。
日本では安保闘争以降デモに参加する無意味さを徹底して教育され、国民が主体となるような革命の種は紡がれた。
さらに高齢化社会によって保守的な老人が増大し民主制の意義は希薄化され、新たな指導者も誕生し難い国になっていたのではないか。
このままでは緩やかに死んでいくのは時間の問題であった。
そんな時にこの強制的なシフトが訪れた。
これに私たちはどうリアクションするのか。
原発事故により様々なものが露呈し普段私たちが考えることのなかったものに考える機会が増えた。都内でも毎週のように原発デモが起こっている。
何が起こり何が変化するのか。そしてその中で私たち個人個人はどのようなアティチュードを示すのか。
私たちは変われるのか。
これで変わることができなければ私たちには望みはないのかもしれない。





